オピニオンリーダーに聞く

『医療』と『福祉』の双方で、トータルとして人の命を考える。
そんな医療・福祉社会が望まれます
 
第2回 八代英太氏

八代英太氏写真車椅子の国会議員として28年間、ハンディキャップのある人がいる社会こそ、正常な人間社会であるという“ノーマライゼイションの理念”を掲げ、日本の福祉をリードしてきた八代氏。来年で車椅子生活も36年目。人生の半分は健常者として、残りの半分は障害者として生きていた彼は、後半の人生を「新たな人生」と捉え、前向きにチャレンジしている。そんな八代氏が唱える福祉とは“幸せ度”。誰もがこの地で生まれこの地で育ち、この地に骨を埋めたいと思う社会こそ、究極の万人福祉社会だという。
(インタビュアー/中村直行・平尾良雄)



八代英太氏プロフィール
1937年山梨県八代市生まれ。1957年山梨放送に入社。1963年上京、タレント活動を開始。1973年ステージから転落し、脊椎を損傷、以後車椅子の生活。1977年参議院全国区に出馬、84万票で当選。1979年障害者世界組織の結成アジア太平洋議長就任。1984年科学技術政務次官就任。1999年郵政大臣就任、2000年郵政大臣再任。2005年衆議院選落選。現在は帝京平成大学教授として教鞭をとる一方で、「福祉の語り部」として全国を行脚中。
 
インタビュアー・中村直行プロフィール
1954年生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。学際情報学博士。統合医療福祉中村直行研究室代表。専門は統合医療情報学、NPO論、社会福祉援助技術論、厚生労働省がん研 助成金研究班協力者、日本緩和医療学会ガイドライン作成委員等を歴任。
 
インタビュアー・平尾良雄プロフィール
1952年生まれ。埼玉大学理学部生化学部卒。32歳で群馬大学医学部入学、1992年卒業後、大学で学位取得。1999年「ひらお内科クリニック」開業。2000年(有)ニューズコーポレーションを立ち上げ、在宅介護・看護・支援を行う「ゆうゆうケア」を開設。3003年通所介護施設「みなみ風」を開設。在宅医療・介護の医師、介護支援施設の経営、学習塾講師、大学講師の4足のわらじを履く。

医師も驚く健康体から、
いきなり障害者に

中村: 先生は福祉の語り部として、さまざまな活動を展開されていますが、福祉に関心を持たれたそもそものきっかけは何だったのでしょうか?

八代: 36歳のときの事故で、車椅子生活になったことが発端です。それまでの私は非常に健康体で、医者から100歳まで生きると太鼓判を押されていたくらいでした。ですから、自分の健康については過信していました。そんな私が後に車椅子生活になるとは…、当時の私は夢にも思っていませんでした。
歩けなくなる…という現実にぶつかったときは、視力が落ちたら眼鏡をかけると同様に、「だったら車椅子に乗ればいい、それで今までどおり生活できる」と楽観的に考えていました。ところがいざ乗ってみると、思うように操れない。大変なことになったと思うと同時に、健康体のありがたさを痛感しました。
とにかく1日も早い社会復帰を望み、入院中は人の何倍もの過酷なリハビリに励みました。当時の目標は一刻も早い退院、それだけでした。
努力の甲斐があって、半年で退院できました。当時は脊椎損傷だと1〜2年の入院が当たり前でしたから、とても早い退院ということになります。ですが、退院が決まったときに入院仲間の一人だった車椅子の患者さんが私のところにきて、こういいました。
「あなたは帰るところがあっていい。私はエレベーターもない2階の借家住まいで、妻は内職をしながら2人の子供を育てている。私が帰っても家にも上がれないし、妻の内職を奪うことになる。だから帰れない。わざと車椅子で転倒して骨折したり、床ずれをつくったりしてこの病院にいかに長くいるかという努力をしている」。
病院はなるべく早く出るものだと思っていた私は、この話を聞いて、そうしなければならない彼の状況や福祉の現実に、胸が締めつけられる思いがしました。退院だけを考えて有頂天になっていた自分を反省するとともに、己の傲慢さを恥じました。
退院して外出するようになると、健康なときにはわからなかった車椅子の不便さがいろいろと見えてきました。水はけをよくするためにカマボコ型につくられていた道路では、操る車輪が左へ左へと寄ってしまうし、電柱や放置自転車、店先に並べられた商品ワゴンなど、障害物もたくさんありました。また、大通りを渡った向こう側にある馴染みの喫茶店に行きたくても、歩道橋が渡れず行けない。電車に乗りたくても改札口さえ通れないし、バスも地下鉄も新幹線にも乗れない…。
障害のないときは何の問題もなかったことが、いざ車椅子の生活になってみると不便極まりないものに。世の中はつくづく健康な人のためにつくられているんだなあと身を持って感じました。

障害者への未理解を取り除きたい!
車椅子生活者としての使命感が

中村: ご自身の体験から、まちづくりそのものへの疑問がわいたということですね。それが福祉への開眼だったということになりますか?

八代: ええ。それで福祉と名がつく本は片っ端から読み、世の中の実態を知るためにデパートなどあらゆる公共の施設にも出かけて行きました。
やがて仕事にも復帰し、車椅子でステージにも立ちました。でも、迎える仲間の様子はぎこちなく、得意のジョークを飛ばしてもお客様はちっとも笑ってくれません。
「車椅子でよくテレビに出演できるな。恥ずかしくないか」という投書も来たし、「あなたのように図々しくなりたい。人の目を気にすることなく自由に外に出たい」という車椅子の人からの投書も届きました。障害者に対する偏見がまだまだ社会の中に蔓延している、そんな時代だったんですね。当時の福祉は施設収容型一辺倒で、障害者は家か施設にいるものという風潮が根強かった。そんな中で私は、次第に車椅子生活になった責任、使命感のようなものを感じてきていました。
健常者が障害を理解できないのは、障害を持つ人たちの暮らしが一般社会と掛け離れたところにあり、理解しようにもそんな機会さえないという現実がある。だから無理解ではなく、“未理解”であると。これを取り除くためには、政治を動かさなければならない。福祉の原点は政治にあると考え、政治にチャレンジする気持ちを高めていったのです。
まずは国会に行ってみようと見学を申し込みました。しかし、車椅子の人は傍聴できないと断られました。当時は国権の最高議決機関である国会議事堂からして、このような有様だったんですね。議員会館の入口も階段だったため、障害者が国会議員に陳情するときは、裏口に回って荷物用のエレベーターに乗るしかないというように、車椅子に対する配慮は何ひとつなかったんです。そんな状況の中でムラムラと闘志が沸き、仲間と共に「車椅子を国会へ」というキャンペーンを行いました。これが選挙活動のスタートでした。八代英太氏 インタビュー風景
私が初登院するまでにはいろんなドラマがありました。八代英太の当選がささやかれるようになったとき、国会は動きました。車椅子の私を迎えるためには、国会議事堂を改装し、入口の階段やひな壇のある本会議場、トイレ等々をすべてバリアフリーにしなければならない。
しかし、車椅子に触ったこともない人が設計するから、どうしても不備やムダが生じてしまうんですね。当初の改装費は30億円と見積もられました。しかし、これでは「福祉は金がかかる」というイメージを国民に与えてしまう。これからの福祉は「当事者の知恵」という財源を利用しなければならないと思った私は、車椅子仲間と国会議事堂に行き、設計のムダをひとつずつ取り除いていきました。健康な人を基準にすると車椅子では使えないものが出てくるのですが、車椅子を基準にすると健常者には何の不便もないことが多いんです。こうした我々の知恵により、最終的な改装費は5000万円になりました。ならば衆議院議場も改装しようということになり、後年、私が衆議院議員になったときは何の不都合も生じなかったわけです。

まちづくりのキーワードは
向こう三軒両隣福祉、心の財源

中村: まさに当事者の知恵ですね。これは、これからの地域づくりにも欠かせないものだと思いますが。

八代: そうですね。これからのまちづくりには、障害者の参加が不可欠です。当事者の知恵という財源を利用する一方で、健常者が車椅子に対する未理解から脱して、スロープや点字ブロックの代わりをする、こういう福祉を育てる必要があります。そういう思いもあって、私は大平内閣のときに国会でノーマライゼーションの理念を発表しました。
また、郵政大臣就任中には、地域の人の暮らしの相談窓口として全国津々浦々にある郵便局の活用を唱えました。どの市町村にもある郵便局は、生活に最も身近な公的機関であり、長い伝統の中でその地域の情報の発信基地、重要な暮らしの拠点となっています。高齢化にますます拍車がかかる現在、地域の人々が互いに支えあっていく「向こう三軒両隣福祉」の実践はとても重要な課題です。そのために全国の郵便局を情報・安心・交流の拠点として活用するというのが、私の理想だったわけです。そういうことを含めながら3C(Chance・Challenge・Change)をキーワードに変革を進めてきました。
向こう三軒両隣福祉の究極的なかたちは、地域そのものが福祉施設になるということ。お年寄りや障害者が不自由なく暮らせる、バリアフリーのまちづくりをめざそうということです。そこに在宅医療もネットワークされているのが望ましいですね。
こんなめまぐるしい現代社会の中で、自分がいつ病に臥すか、あるいは障害を持つかは誰もわからないわけです。そのときに国の福祉政策は、転ばぬ先の杖でなければならなりません。福祉のまちづくりは、健常者の先々に備えての心の拠出、そして障害を持ちつつ不自由な生活の中で得た知恵という財源、この2つが絡み合って成り立つと思うわけです。

平尾: 素晴らしい構想だと思います。お年寄りが元気になる秘訣は、外に出て人と関わりを持ち、楽しい時間を共有すること。医師としてもぜひ推奨したいものです。

医療と福祉は車の両輪
両者の基盤整備と財源の投資が必要

中村: これからの福祉を支えていく若者には、どんなことを期待されますか?

八代: 福祉に関しては、むしろ若者のほうが偏見はないですよ。昔は健常者が障害者と接する機会は少なかったんですが、今は障害者も積極的に町なかに出るようになり、地域の人と共生する時代になってきましたから。
とはいえ、まだまだ日本は分離教育なんですね。障害を持った子と持たない子が別々のところで教育を受けている。障害者に対する未理解から脱するには、小さい頃から両者が共生しながら机を並べて勉強するという教育環境をつくる必要があります。これにより、障害のない子には思いやりや助け合いの精神を、障害を持つ子供には自立の精神を育てることが必要ではないかと思うんですね。
日本人は本来、心温かい国民です。阪神淡路大震災でも、スマトラ沖地震でも巨額の寄付が集まるし、アフリカ難民の救済や赤い羽根共同募金、歳末助け合い運動などにも積極的に協力します。ただ、遠くにいる人には投げ銭をするけど、隣の人や周囲の人に対する関心が薄いのが問題です。若者たちがそういうところに惜しみなく心の財源を投じるような、そんな社会になってほしいですね。

中村: 福祉は幼い頃からの教育が大事。地域福祉社会とは、隣人への理解と助け合いから始まっていくということですね。
ところで、医療と福祉はこれまでまったく別のものとして捉えられてきましたが、現実として福祉なき医療は成り立たないのではないかと思うのですが? また、今後の医療の方向性については、どのようにお考えでしょうか? 

八代: 医療と福祉は車の両輪のような関係で、両者があってはじめて成立するものと考えます。ところが残念なことに、日本はまだまだ医療や福祉への財源投資は、先進国の中では遅れています。今、医師不足や病院の倒産が問題になっていますけれど、それはこれまで財政主導でやってきた政治に責任があると思います。医療費もかなり押さえられていますが、医者になりたいという思いを喚起するには、医師の負担を軽減するような制度や労働に見合った報酬、人員の確保が必要だと思います。このままでは医師としての情熱や崇高な理念も育たない。そういう意味ではもっと医療費は潤沢であるべきですし、患者側にも過度の負担がかからないようにしなくては。そのためには、介護保険や後期高齢者医療制度のようなものに頼るのではなく、長生きをしたいという人間本来の願いを優先し、その拠り所となる医療や福祉にもっと財源を注ぐべきだと思いますね。
北欧のスウェーデンでは70%以上の国民負担の中で福祉社会が構成されています。それだけ国の政策も医者も信じられているわけですよね。日本でもこれと同様の国民負担率が許されたなら、世界一の福祉国家となるでしょうが、それはあり得ない。せめてもの政策として医療、福祉の基盤整備を国民の負担の中でしっかりと位置づけ、トータルとして人の命を考える医療・福祉体系というのが必要ではないでしょうか。少ない財源は大切に扱われなければならないし、足りないところは、人々の心の財源と障害者やお年寄りの経験から得た知恵の財源で補っていくということです。

「人は石垣、人は城」
建物ではなく、中身の充実を!

平尾: 同感です。先生がご指摘された財政の締め付けにより、医療全体が大変なことになっています。医療だけでなく介護も含め、福祉は本来、国民のためのものだと思うんですが、今は財政主導でここまでという具合に押さえられている。
一方で、患者さんの要求水準も上がっていますから、この状況が進むと医師は己のリスクを避けるようになります。たとえば手術。これまでは人の命を救うために執刀するという前向きな気持ちがありましたが、万一のことがあったら、患者さんやご家族から訴えられるんじゃないかと思い、気持ちも萎縮してしまいます。
医者をめざす人間は、「人の役に立ちたい」「たとえ自分の時間を削っても、患者さんのために何とかしよう」という思いがあって医学の道に入っていくと思いますが、今のような状況が続くと、この志や情熱が薄れ、できるだけ安全で負担の少ないポジションにいようという消極的な気持ちになってしまう。これは大きな問題です。
こうした現状をふまえ、日本医師会はもっとマクロ的な視点で、これからの医療はどうあるべきか、高齢者医療はどうあるべきかをきちんと提言すべきだと思います。医療は国民のためにあるとしたら、もはや医者の立場だけで考えるのではなく、政治家と一緒になって考えていかなければなければならないと思いますが。

八代: おっしゃるとおりですね。医者に対して患者さんは自分の健康について絶対の信頼を寄せているわけですね。信頼した以上は、それに対する報酬を支払うのは当然のことですし、訴訟云々に発展することはあり得ないはずなのですが…。昔は治安は警察に、教育は学校に、命は医者にという、暗黙のルールみたいなものがあったのですが、今のように情報が氾濫する時代になってくると、それらを利用して物事が思いもかけない方向に発展するという歪んだ社会になっています。とても残念なことです。
日本が世界に冠たる長寿国であるのは、日本のお医者さんの医療にかける情熱があったからこそ。医療と福祉、そして日本の気候風土が長寿社会を支えてきた、といっても過言ではないと思います。
ですから、今後わが国がますます発展していくためには、この2分野にもっと財源を注がなければなりません。それにより、さらに高度な医療も可能になり、触診という“たしかな手”に自分の命を委ねるという患者側の信頼感や安心感も大きくなっていくと思います。これからの医療は、そうあってほしいですね。

平尾: 医師の立場からしても、人々の心の財源がムダにならないような、本当に国民のためになるような税金の使い方をしてほしいと思います。
福祉面でいうと、政治家は特養ホームをつくればそれでよしと思われているようですけれども、ハードだけできても、ソフトの部分が追いついていかない。これが現状です。施設の建築にかかる巨額なコストを、在宅医療や介護といった在宅サービス部分に回せば、ヘルパーさんの数も給料ももっと増やすことができます。そうなれば、それこそ先生がおっしゃった“まち全体の福祉施設化”に一歩近づくと思うんですけど。

八代: それは大切なことですね。わが故郷・甲斐の武将、武田信玄公は「人は石垣、人は城」という哲学を持っていました。いくら立派な城をつくっても、そこに魂が入っていなければ意味がないということです。つまり、いくらいい施設をつくっても、そこで働く人、入所している人が満足しなければ意味がない。まちそのものが施設であり、そこに住む人全員が施設職員という発想が大事でしょうね。八代氏を囲んで
この「人は石垣、人は城」的な福祉社会になって、一人ひとりが心の財源を隣近所の人に注ぐ…。高齢化社会であればこそ、障害者が自立して地域社会で暮らす時代であればこそ、隣近所の希薄な関係を見直す必要があると思いますよ。よく、畳の上で死ねたら本望といいますが、そのためには在宅医療の充実や、向こう三軒両隣福祉の実現が望まれるところですね。

平尾: そうなれば、障害があっても年をとって病気をしても、安心して暮らせる社会になりますよね。まさに理想的な社会だと思います。

中村・平尾: 長い時間、大変貴重なお話をありがとうございました。

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