お元気で現役として活躍されている秘訣
今回の取材をご快諾頂き感謝申し上げます。(自己紹介等省略)
中村:さっそくですが、三木元首相は「晴天の霹靂」という言葉を世の中に蘇らせた方ですが、その事よりも私はたしか新聞記者の方に「疲れたでしょう」と言っておむすびを配られていたのは奥様だったと記憶しています。30数年前ですね。その頃からどんな方なのかなあ?といつかお会いしてお話ができたらいいなと思っておりましたが、本日ご縁がありお会いできることになり感激しております。また、聞く所によりますと当時、結城豊太郎大蔵大臣が仲人になられて、お二人が結婚するエピソードの際に、方や千葉では有名な森コンツェルンで、方や三木で「三木と森は因数分解すれば木が三つで一緒じゃないか」という頓智に、奥様が「解りました」と嫁ぎますというエピソード。家同士で行ったり来たりということになったそうですね。そのユーモアが延々と続いていて。長良川の河口堰の問題の時に、三木派の議員の方から「奥様、今日は何でいらしゃいましたか?」と聞かれ「はい、新幹線で来ました。」と言われたそうですね。ものごとに対するウィットというか、いろんな角度から見て相手にインパクトのあるメッセージ送りながら、しかもやわらかくお話をされていくというのは非常に庶民的だなと思います。当時、公用車が盛んに走っていたのですが私の記憶に間違い無ければ新聞で見たと思いますが奥様は、地下鉄にお乗りになって「今、巷ではこういう事に関心があるのよ、問題意識持ってるのよ」と三木首相にお話になったとか。
三木:何か私がやった事を良い方良い方へ解釈くださるみたい。(笑み)
中村:私の認識に間違いがあるのでしょうか? まず本日は、テーマを3つぐらいにし絞ってお話していただけたらいいなと思います。まず一番最初に、非常にお元気で奥様のご著書には「孫には負けていられません」というようなことを書かれているのですが、今でも現役で、しかも矍鑠としてご活躍でいらっしゃるのでよく皆さんから秘訣はなんですかという質問をされるんではないかと思うのですが。どういう秘訣をお持ちなのでしょうか?
三木:私はただあるがままに、生きているだけで別にどうしよう、こうしようと思ったことはないんですね。9人兄弟でございました。10違いの兄から8つ下の妹まで8人全員亡くなってしまいましたもんですから…。
短命な家系だと思います。父も56才で亡くなりましたし、母も後を追うようにして亡くなりました。三木の方は、三木自身も病気を持っていながら長生きをしましたし、私は三木の家にきたから長生きができたのかな〜ぁという感じですね。けれども、命というのは誰がどうするというわけにはいきませんね。自然に9人兄弟の中で、一人生き残っていたという、気づいてみたら”あらあら“私一人だわということですから、自分で努力したわけでもなんでもないんですね。兄や姉も頑健な体つきで見たところ早く亡くなるような感じではございませんでした。兄も何大臣ですかやってすぐに亡くなりましたし、弟も同じようなことで、すごく元気で丈夫だったのに…。その弟は、三木の入院中例年のご招待に宮中三内するの?と聞いてきました。私は三木が寝ているけれども、自分だけは伺おうと思っているのよ言いましたら、僕がエスコートしようと言ってくれたんです。そこで一緒に行きましょうと皇居の橋を渡ったんですが、帰ってきてほどなくして亡くなりました。ですから兄弟が次々と、まだまだ働けると年齢で。父は56歳でしたから、当時では短命とは言えませんが8人の兄弟も皆去り、今では私一人ぽっちになりました。命というのは約束事ができませんね…。
平尾:唐突な質問ですが、今90歳大正6年のお生まれですね。いつも患者さんにお聞きすることなのですが、90年間の人生というのは長いと思われますか、それともあっという間のような短さがあるんでしょうか?これを是非教えてもらいたいのですが。
三木:三木と暮した半生はあっと言う間でしたけれども、それからはいつ死んでもいいなと思いながら結構長生きしております。三木が生きている頃は、せかせか、せかせかと暮したものですけれども、最近はそれこそ子供達の生活も私の生活も心配ないものですから、いつ死んでもいいわと思いながら、結構毎日を楽しく過ごしております。
平尾:そうですか。三木元総理が特に政治の中心になられた。そして、その後辞任されてからというのがあるのですが、その中で奥様としては大変な思いをされたんでしょうか?
三木:ちっとも大変な思いをしてないんですよ。あるがままに暮してきました。というのは私は生来9人兄弟の6番目ですから、ものを考えなくてもよかったんですね。兄達のすることを見ていれば良いという感じでございましたから、別に自分が特に何をしなくちゃいけないとか、そんな立派な覚悟も無かったんです。いまだに“ぼやっと”しているというか“ふらふら”しているというのか、恥ずかしいくらいに毎日を暮しております。
平尾:そうすると何事にも動じないということでしょうか。
三木:そうおっしゃって頂くと大変偉そうなんですが。
三木武夫元首相とのエピソード
三木:三木と結婚してからは、大変な人生でございました。娘時代はなんと、呑気に暮していたと思うぐらい幸せに暮しておりましたから。三木と暮し始めて、こんな慌ただしい、それこそ毎日が戦場のような生活をさせられて、後からびっくり更にびっくりです。(笑い)
中村:確かに、お嬢様もおっしゃってますように、それまでなかなかとれなかった頭痛がお一人になられてからは直られたとか。
三木:今、ぜんぜん頭痛はありませんね。ところが三木が亡くなる前までは、しょっちゅう頭痛がして、こん〜なになって(頭を抱える仕草)暮しておりましたけど。
頭痛がするからと言って仕事を休むわけにもいかないので、毎日せかせかと暮しておりました。
中村:今、具体的にご主人のお話が出てきましたのですが実は三木武夫(故元首相)と言えば、まぁ〜私の知る限り、日本の憲政のなかでは3本指に入る名政治家。これ奥様の前でおせいじを言っているのではなく、国会議事堂の中に胸像があるのは尾崎行雄さんと三木武夫さんのお二人しかいらっしゃらないと思うのですが?
つまりそれだけ日本の国政に対して貢献していると、国の代表者が認めている。私があえて言うことでは無いんですが、しかしながらそういう方を、裏で支えるということは頭痛がするほど大変だったと思われますが、エピソードをお聞きできたらお伺いしたいのですが。今、振り返ってみて特に今でも鮮明に覚えているものがありましたらお話願えますか。
三木:三木は国会で尾崎行雄先生と並んで胸像を作って頂いているんですね。それは3つあって4つ目の台座があいてるんですね。三木のお弟子の先生方がどうしてもここに三木先生を立たせたいというんですね。そんなばかなことを言ってはダメで、明治以来の偉い方がいるんで、三木もそこに立つことをを望んではいないと思うわと言ったんですが、皆さん
の相談の上で決まりました。尾崎先生とは最初の当選の時からずっと一緒でした。尾崎先生も一人ぽっち、だったんですが、三木も一人で当選してきたら、たまたま二人同じ部屋になったんです。年齢は三木が最年少でしたから、以来尾崎先生の教えを受けながら、国の仕事をしてきたわけでございますけれども。尾崎先生も清廉潔白な方でいらしたし、私は今だに尾崎先生のお嬢様と仕事をさせて頂いております。彼女は最近、軽井沢にお引っ越しされたのですが、お一人で、電車で出ていらっしゃいます。私より年上なんですよ。彼女曰く、この頃1時間でこれるのよと言いまして、お歳は大変なお歳ですけれども非常にたのもしい方です。痩せていて小柄な方ですが、考える事は世界的で語学も堪能で、地味に見えますが仕事は広範囲にされている方です。いまだに、お付合いできている、これも有難いことです。夫と尾崎先生が仲良くしていたおかげと思います。三木の場合は、尾崎先生が亡くなられたあと、小さな党からはじまった人ですけれども、最初に尾崎先生と同じ部屋で、勉強できたことは三木にとっては幸せだったんではないでしょうか。政界という所は欲と権力の渦巻くところですから、その中に入らなくて済んだということは、歳若い三木にとってはとても幸せだったんではないかと思います。尾崎先生も孤高の方でしたが三木もアメリカから帰国して田舎に帰り、立候補したら当選できただけで、気持ちは高揚していたとは思うんですが、一度に大きな党を作ろうなどという余裕は無かったと思うんです。たぶんその次の選挙で、小さな党を作ったんだと思います。やっと30才になったばかり、3月17日の生まれですからぎりぎりでした。もう少し後でしたら当選できなかったわけです。
平尾:失礼ですがその時は、睦子さんは御結婚前で。
三木:はい、全然知りませんでした。でも私の叔父が若い代議士で、当選していたものですから。その頃は議員宿舎も議員会館もないんですね。だから国会は休憩時間というと皆ウロウロしているわけです。私の叔父は里が今のニューオタニの真ん前で、国会が近いんですね。ですからお休みの時間になると、姉さん姉さん腹へったとやって来て友だちも連れてきたよ、とかいって叔父は私の母に甘えっぱなし、というのは私たちの祖父母は早く亡くなって、曾お祖母様に育てられたわけですね。母が嫁に来たら、まだ叔父たちは小さかったんだと思います。まあ、自分の叔母さんかなんかが来てくれたんだろうぐらいのことで、甘えていたんだと思います。ですから国会議員になっても、すぐに姉さん姉さん飯くわせてくれ腹がすいたと言える立場だったんだと思います。その中に三木も入っていて一緒におやつを食べに来たり、しかし、何も無しにごちそうになるのが照れるのか、いつでも小脇にTIMEとかなんとかアメリカの新聞やらヨーロッパの新聞やらを持ってきて、夜、暇があれば私にそれを拡げて今、ヨーロッパではこういう情勢です、とかアメリカではこうですとか言って話して聞かせてくれました。世界情勢を耳で聞けるということを、私の父はすごく喜んでいたんだろうと思うんですね。私の長兄と三木が同い年のこともあり、叔父と一緒にやってくれば大きな炬燵の周りに集まって喧々諤々いろいろしゃべっていました。
平尾:その場所が皆さんが好きな意見を言う場所だったんですね。
三木:226事件もそこで経験しましたし、その後いろんな事をなにしろ今のホテルニューオータニの前ですから情報が早いというか近いというか。
中村:そうですね、確かに、三木元首相は日米の開戦には反対していらしたんですよね。というのはアメリカを良く御存知で底力を知っていらしたということがあったから、その後あった総選挙は翼賛選挙でしたね。それが終わって非常に厳しい中、戦中戦後の選挙できちっと当選されています。現在、金と政治の関係というのは皆さんが揶揄してらっしゃいますが、私が感銘を受けたのは当時、政治資金規制法ですとか公職選挙を矢面に立って変えられたのは三木元首相でいらしたんですよね。ですから、そういう世間からの風当たり、あるいは同僚からの風当たりというか、注目というのが高い中で奥様として家事をやられる結構大変だったんではないでしょうか。
三木:でもまぁ、私は守られていましたからね。ですけれども彼と一緒に不戦運動というんですか「戦うべからず」という運動をしていたのが阿部さんのお祖父様なんです。阿部元総理はお祖父様のことを全然知らないと思うんですね、50歳になったばかりで早く亡くなられたので。阿部さんは離婚されて息子ひとりを育てながら国会に出てきてらしたんですけど、育てると言ってもやはり男手でするわけにいかないので、婆やさんがいたのか?ともかく阿部さんのお父様はさびしく育ったわけだと思います。阿部晋太郎さんですね。三木は「戦うべからず」という標語を一緒にやってましたから、阿部さんとは大変仲が良かったですね。演説なんかして帰ってきても、阿部さんは夜中にお腹がすいたと言っておむすびを頬張るとすっと出ていくような方でした。つまり、私たちを煩わせないように気遣いし、奥様がいないにもかかわらず大きな大志を抱いて日本をなんとか戦争をやめさせようと。日本人は戦争しようというと、わーっとそれいけーってなりやすいんですよ。 それをなんとか沈めて我ら「戦うべからず」という事をいうのは大変だっくと思うんです。だーっと来ておむすびを食べるとすぐに出て行くという感じで、私はまだ結婚して間も無かったものですから、思うようなことができず、自分自身が幼かったんですね。
中村:見るもの聞くものがすべて、今までの環境と違うものだったんですね。
三木:そうなんですね。家は父が持っていた家を手を入れて住わせてくれたんですが、それにしても目白駅の近くでして、そこへ阿部さんのお祖父さんも時にひょいと寄って。ゆっくりしゃべる暇なんかなくてお茶漬けをかき込んだらすぐにまた飛び出すというような状態で、まぁ〜官憲に追われていましたからね。
平尾:そうですね、逮捕されると大変なことになったんでしょうね。
三木:家の周りにも特高警察がうろうろしてましたしね。でも、そうこうしている内に若い特高の人達とも仲良くなってしまうんですね。
中村:独特なお人柄があるんですね。
三木:皆さん今日は仕事を離れてお話を聞きにまいりましたなんてね、結構仲良くしてました。しかし本当は相対する仲ですよね。
平尾:もう中国では事変がはじまっていた時期ですよね。それから、大平洋戦争に突入していくまでの間のことですね。
三木:三木はアメリカの事をよく知っているものですから、ここでアメリカと戦争すべきではないということを言うんですけれども、一般の方は何も知りませんからね。なかなか、三木さんが勝手なことを言い回るということで…。
中村:そこで大衆は恐いということをおっしゃるようになるんですね。
そういうお二人で、一つひとつ築いてこられてしかも国家大系、100年の系を考えながら平和主義を貫いてこられた。たとえ、それが少人数の党派であろうと信念を持って、いわゆる「真なくば立たず」というものに繋がっていくと思うんですが、実はそういう中でこの現在の日本の状況をご覧になられていろんな問題をお感じになっていると思うんですが、その中で可能であればまず、医療問題についてどういう点が問題とお考えですか?
今後の医療に期待したい
平尾:医療という範囲だけでなく、福祉とか国民のためのものだと思うんですけれども、これが今の時代の中で、財政主導でどうしてもここまでに押さえますという状況にあるわけなんですが、私は一医師の立場、市民の立場で考えているんですけど、医療と福祉の問題で何かこうだったらいいのにというのがあればお聞かせください。
三木:三木は元々体の弱い人でございました。外見は大変強そうに見えるんですが、本当は結核でございましてね、私は知らずに結婚したんですけれども相当に肺を病んでいました。終戦後、しばらくしましたらストレプトマイシンという特効薬がアメリカで出来たというのを、新聞か雑誌の小さな記事で知りました。これこそと私は思い、早速身辺のお医者さまに相談しました、がとても自分達には手の届くものではない気がするという事でした。終戦直後でしたから、そうそうアメリカとの貿易もうまく行かなかったわけですけれども、アメリカに、三木の学生時代からの友だちがおりましたので、ストレプトマイシンという薬があったっら欲しいと手紙を書きました。三木の病気のことは書かなかったんですが、向こうは切羽詰まった手紙だから病気に違い無いと思ったらしく、何人かで必死に捜してくれたんですが、アメリカでも市販されていなかったので一般の方は知らなかったでしょうね。
方々手を回したところ、軍用に作られたものがあるというのを聞いて送ってくださったんです。ストレプトマイシンをそして必ず粉ミルクを1缶付けて、なんで粉ミルクが付いてくるのか解らなかったんですが、ちょうど息子が育ち盛りで毎日すくって粉のまま溶きもせずなめておりました。その子も小児結核で苦労したのが、元気に会社の社長をしております。お陰さまでストレプトマシシンが貴重なものを連れてきてくれたものですから、息子の体もすっかり元気にました。私の家は9人も兄弟がいても皆元気でしたから、まさかそんな病気を持った人と結婚するとは思いもしなかったんですけれども、結婚後すぐ、翌年の春に父が急に、昭和電光の鈴木さんの結婚式だったと思いますが仲人をしていて最後に引き合わせるという演説の時に喀血したんです。そのまま聖路加病院へかつぎ込まれて、56歳で亡くなってしまいました。そんな事もあって、ストレプトマイシンの記事を読んで父がこれを使っていたら、また元気になれたかも知れないなぁ〜と思いはしました。手に入るかどうか解らない状況で、アメリカの友人たちは軍用に使えるのを待って陳情の書類を出し送ってくださったんですね。小包が届くとお薬以外に必ず粉ミルクを1缶付けてくれて、何んでか私は今だにはわかりません。
平尾:たしか昭和25年にストレプトマイシンがアメリカから日本に入ってきたんですね。一般の方に使われだしたのはそれからですから、それより早い時期だと思います。
三木:お医者様にこれを使わせてくださいと言いましたら、聞いたこともないので勉強させてくださいと言って先生方はどういう風に使うか研究してくださったんです。その間に三木は逓信大臣になりましたので、火曜日の閣議が終わるのを待って主治医が「ばっかくさん」をハンカチで包んで隣の秘書官室で待ち、注射するとか便宜を測ってくださいました。ちょうどその頃にストレプトマイシンが手に入ったんですが、日本では扱ったことのない薬でしたので開け方も解らないような珍しい缶でした。はがすと中がゴムで、ゴムに注射針を刺して使ったように覚えています。
平尾:最初注射だったんですね。最終的には飲み薬になったと思うんですが。昭和25年を境に日本ではそれまで死因の1位だった結核が、ほとんど克服されているんですが、お父様は結核で亡くなられたんですね。
三木:はい、父は結核でした。
平尾:三木元首相も結核ではあったけれどもそのお薬が来たので助かったということなんですか。
三木:ほんとにそうなんです。たぶんストレプトマイシンの患者としては初めてだったんだろうと思います。その第1号になったことで、その後のご主人の活躍があったということですね。無かったら結核で死んでいたろうと思います。とにかく80、90歳近くまで生きたというのは薬のおかげだと思います。
平尾:良いお話です、何処にも無い医療の歴史みたいな気がします。
三木:その代わり旅行するというと、女が外国へ旅行するような余裕の無い時代でしたけれども無理して、三木に付いて行って、毎日ストレプトマイシンの注射をしました。道具がありませんから電気コンロとミルクパンを持って行って、先ず電圧が違うので電気のコードを差し換えてコトコトとお湯を沸かして、消毒してということを毎晩やらなければいけませんでした。今のように使い捨てではありませんから、3ヶ月間の旅行中薬と注射器を持って歩いて、注射してそれでなんとか健康を維持してあの歳まで働けたということなんです。
中村:貴重なお話ですね。
平尾:今のお話の中で信念の方であったということが良くわかったんですが、最初はお一人であられたのに総理になられるというのは三木さんを応援された方々が沢山おられたということだと思いますがこれはどういうことだったんでしょうか?
三木:沢山というわけでは無かったと思います。しかし、逓信大臣になった時には20?30人の同士が出来たと思います。逓信大臣を辞めてからストマイの件で入院もしましたから退院してから同士を集めていろいろやってましたが本人は大きな病気をしているなど全く気が付かないみたいですね。付いて回って注射してました私に何のために君は付いてきたんだと言ってたぐらいです。
平尾:そうですか、やはりご自身のことよりも今後の政治をどうするかということばかり気にしてらしたんでしょうね。
三木:ぜんぜん自分の体がどうなるとか考えたことが無かったんでしょうね。終戦直後にお友達があちこちから軽井沢の別荘を買ってくれと、頼まれたんですね。生活のお金に困るんだというのが4?5件あり自分がお金を持っているわけではないので、これをなんとか断らなければと思い、行ってみて気に入りませんでしたと断ろうとしたんですが、向こうで長野県の県会議院の方々につかまって。今晩ともかく泊まって相談に乗ってくれと言われたんです。
私は幼い子供を残してるのでそうは行かないと申しあげても、そこをなんとかといわれ押しとどめられて、そこで何が起こったかというと、このままでは我々はいよいよ死ななければならない所まで追い詰められてます。それまで疎開と言って集まって来ていたのに皆さんどんどん東京に帰られてしまい、軽井沢は食べるものがないから終戦になったらすぐ財産を売って帰ってしまう。それでは軽井沢はどうにもならないから、外国でやっているように夏の国会を軽井沢でやってくれないか、とか。急行を止めてくれとか。いろんなことを、私のような若い代議士の奥さんに話してもどうしようもないようなことをいうんです。とても引き受けられないけれども、夫に話すだけは話してみましょうということになったんですが、山の上にある家、庭も広いんですがあばら家を買ってください。そうすればここでじっくりご相談ができるじゃないですかと。私、お嬢さん育ちで気が弱いものですから母のかたみの20万円の内19万円をその家に投じてしまったんですね。
中村:お買いになったんですか?
三木:ほんとにかわいそうに、ものを知らずというか、そういう事に出くわした事がないですからね。里は母が何もかもやっていてそんな事に口を出したことは一度もないのに、山の上の家を19万円で買わなくちゃいけないはめに陥ってしまいまして。
平尾:昭和20年代の話ですね。
三木:昭和20年に戦争が済んでその年ですね。
中村:当時の19万円といえば大変な額ですね。
三木:その家は建て坪50数坪あって庭がそうですね800坪くらいあったでしょうかねこんもりした森の中だったんですけど子供はいるし私そんな別荘なんか要らないんですよ。ところが県会議院とかに丸め込まれてしまいました。
平尾:まぁ〜。軽井沢がこのまま無くなったら大変だと思ったのでしょうね。
三木:そ〜なんですね。街を歩いていると、それこそ素敵なご皇室さまが筵を敷いて立派な花瓶やら何やらを並べて売ってらっしゃるのね。それを売らなければ東京に帰れないんですっていって、どうしても一刻も早く帰りたいんです。と、泣きながら売ってらっしゃる方がいるんですね、私は同情するけれども私自身は軽井沢に家を持ってもどうしとうもないんですが、切羽詰まって19万円で買うことになったんですよ。
平尾:軽井沢のどの辺だったんですか?
三木:旧軽井沢の山の上で、周りは外国の方の家ばかりでした。元々軽井沢という所は我々がまだ別荘を持つような場所ではなくて、外人の保養地だったんですね。家を買って軽井沢の活性化というのでまさか急行を止めることも私にはできないし、一晩泊まって吹き込まれて帰って来たんですが、それからは県会議院などが県庁に行って三木さんが認めたとかいってたらしいんですが、三木さんがじゃないんですよ三木さんの何もできない奥さんが。(笑い)。
中村:ご主人は反対されなかったんですか?
三木:そんな事話す余裕がございませんでした。
中村:知らない間に。
三木:そう、知らない間に。でも母の残してくれたお金を持っていなければ、私もそんな事はしなかったと思うんですが、それは三木のお金では無かったものですから、ついついその使う気になっちゃたんです。今考えるとまったく子供みたい、子供でしたよ。
平尾:しかも、それが昭和20年のことだという。
三木:ほんの子供でしたからね。ものを考える余裕もないのに、相手は県会議院や蒼々たる闘志がよってたかって私を説き伏せて急行を止めてくれなければとか陳情なんです。一晩泊まって陳情をさんざん受けてしかも小さな家を買わされて…。おかげでまあ私の子供達も小児結核の療養もできましたし、姉の子供も夏預かって毎日熱を測って書いて子供ながらにかわいそうな苦労をしていたんですが娘と同い年でしたので一緒に一夏過ごしてだいぶ元気になりましてね19万でしたけれど買って良かったと思いました。
中村:災いかどうか解りませんが、転じて福と…。
三木:娘も元気に育って今は大きな大学の学長夫人になってますけどね。私は軽井沢に別荘を持つような贅沢な人種ではないのに不思議ですね運というのは。
平尾:切っても切れないご縁で今でも。
三木:そうなんです。今でも軽井沢とはずっと続いています。手に入れた家はだんだん大きくしていったわけですね夏休みになる毎に前の家を売って新しい家をとしていったんですが結局最後は三木がどかんと売ってしまって新聞に多額納税議院とか乗ってるのでこれなあにと言ったらいや軽井沢を売ったんだよと。私に一つも相談なしにどうしてと思いましたが。
中村:買う時も相談なしでお買いになり、売る時も相談なしで。
三木:ともかく面白い夫婦で
中村:信頼関係お有りになる
三木:だけど最後の軽井沢の家は結構大きな家で軽井沢学校という講習会も致しました。地方の県会議院や青年団なんかが寄って来て先生方のお話を聞いたりして私は学生達のための付属家屋も建てたし庭も広い立派な家だったんですけどね。妙な夫婦でしたね。
平尾:しかし、絶妙なバランスでご夫婦をやっておられた。
三木:そう彼は自分のやりたい事をやって暮していましたからね。誰に気兼ねも無しにもちろん、一人っ子で親兄弟いないものですから勝手なことが出来たんでしょうけど。
平尾:こんなお話が聞けるとは思わなかったですね。
教育に関する思い、子どもを戦争にやってはいけない
中村:先程のお話の中でお子様の小児結核の保養のために役立っくてくれて良かったとか所々お子様の話が出てくるんですが息子さんご自身たとえば朝鮮の子供達にバナナを送る会会長をされてますね。非常にお子様の教育というんですか支援活動やって来ておられると思うんですがその辺今の日本の教育とかの実体を見て昔とはだいぶ違うなと思われますか?
三木:そんなに私はものを良く知っているわけではありませんから。日本の教育がどうでも自分の子供が病気しないでうまく育てばいいなくらいで、恥ずかしいんですが。
平尾:やはり朝鮮の子供にということは自分の子供だけでなくてやはり我々全員の宝だと思わなければいけないんじゃないかと。
三木:そうなんですね。立派な報道じゃないにしても新聞の隅に朝鮮の子供がどうだなんて書いてあるとつい、気持が動くというか涙が先に出るっていうかなんとかしたくなって来るんですね。
平尾:今、日本では食料がなくて困っているという子供がいる事はないんですが、世界では飢餓で亡くなる小さな子供達がたくさんいるという現状ですから。
三木:皮肉にも飢餓で苦しむような所に子供がたくさんできるんですね。なんとかならないかと思うんですけどね。生んじゃったら育てなけりゃいけないのに育てる事を考えずに生んじゃうのかと思うんですけど。
平尾:日本は逆に少子化で出生率1点いくつですから二人のご夫婦から一人ちょっとしか生まれない時代なんですね。これはこれで、日本の行く末というのもどうなることかなと思いますが。私は案じているんですが、高齢者ばかり増えてしまうと、これから何十年の間にね、しかたがないとは思うんですが…。
三木:高齢者というのは生まれて生きて、お国のために働いた人達をそのまま見過ごすわけにはいかない。やっぱり、大事にしていかなければいけないと思います。となると、その方達を苦労しないで生活して頂くためには、元気で働ける者が一生懸命働いて困らないようにしてあげなくてはいけないと思います。しかし、働ける人達の負担が大きくなると、だんだん心配になって来る。それじゃ子供を生まない方がいいという話になるんですね。
平尾:女性の問題として捉えるのか、国の問題として捉えるのかいろんな面があると思うんです。子供さんが結婚されないとか、子供を生まないとかいう時代になって来ましたから。時代は変わって来ている事は間違いないと感じます。
三木:そうですね。
平尾:昔はそういう事を考えなくても次の世代が作ったもんですよね。
三木:政府の方針で、生めよ増やせよと言われると、ついその気になっくてしまたりしてね。
中村:今は子宝という言葉をはたして理解しているか疑問ですね。
朝鮮の子供達に卵とバナナを送る会の会長をしてらして実際に朝鮮の方からも女性で4人目となる親善に貢献されたという勲章をピョンヤンの議場で授与されたんですね、おそらく金日成さんにお合いになった一番最後なったんあですね。
三木:そうなんです。帰ってきたらすぐに訃報が入ったもんでうから、まさかと思いましたね、元気でしたから。病気で死んだとは思えませんから…。一国の頭領が山の奥へしかも一人で行くわけがないでしょ。医者も付いて行ったでしょうにちょっとあの亡くなり方はおかしいなと思ったんです。つい2、3日前に会ったばかりなので聞いた時は驚きました。すごくお元気でしたので、事情は今でも解りません。
中村:そういう経緯をへて子供の問題にしてもこれからは国家の問題なのか女性としての問題なのか議論される中で三木さんは女性としてアジアの中の女性、アジアの中の日本というスタンスでいろいろとご活躍され、今も責任者をされてます。女性がこれからは出しゃばらなくてはいけないと良くおっしゃってたと思うんですが。これから子育てとか福祉とか医療の分野でも私はもっと女性が活躍する場があるんじゃないかと。
三木:そうそう。そうなんですね。もっと女の人が自覚を持って次の世代の事を考えていかないといけないと思いますね。今、現在じゃなくて次の世代は子供をどれくらいにしたらどうなるのかという事をですね。今までは国のため、子供を生むとか生まないということではなかったでしょ。自分達の生活のために子供をつくっていたんですから。国家社会のために子供を生むということでいいのかどうか。
平尾:そういうつもりではなくても、本当に子供がいなくなってしまったら国として衰退する意外にないわけですから。世界で一番である必要はないにしても、日本が存続可能な国になって欲しいなと思いますね。ここへ来て世の中が、時代が変わったなという実感があります。
三木:数十年の間にずいぶん世の中が変わったような感じですね。
平尾:私の若い頃、地域社会の関心事は子育てにあった。良い学校に入れるとかですね、昭和30?40年代はずっとそうでした。ところが現在、多くの方の関心は老後の事とか介護の事とかこういう方向に変わってきています。テレビなどでもそうですね、テレビで介護の事なんかがよく放送されます。高齢化が進んできているので、話題の中心が変わってきているとも言えるんです。教育の問題だけは我々がいなくなった後、子供達が日本や世界を作るわけですから非常に大事だと思います。
中村:そう言った意味でも私は戦争反対なんですが。「憲法9条を守る会」という活動を続けている中で三木さんが一番主張されたい事ですね。つまり自分の子供が兵器を持って戦場に行くという辛い親の気持ちをご存じですか、体験されて亡くされた時の母親の辛い気持ちをご存じですか、というのはすごく説得力があると思うんですが。こういう事をこれからも声を大にして行かれるおつもりでしょうか?
三木:そうですね。ともかく自分達が自分の子供を戦場にやるという事に対する拒否感をもっと大きな声で言わないと、お国のためと言われるとついその気になっちゃうというのが困ります。それは決してお国のためでは無いはずなんですけどね。
平尾:三木さんがこれを主張される原点はやはりお若い時の戦争体験に基づいていらっしゃるんですね。
三木:私は9人兄弟でしたが3人兵役にいきました。兄は硫黄島で戦死してます。何度か帰ってきましたが最後は硫黄島でした。死んだ兄は大変むづかしい仕事をしておりましたので居てくれないと困ると長兄は何度も陳情したんですがとうとう戦死してしまったんです。当時、家や会社では兄がいない事でつらい苦しい思いをしたようです。
重宝される人というのはどこに居ても重宝されてしまうんですね。
中村:今でもいろんな方からお誘いがあったりしてこの会があるから是非参加してくださいとか是非こういうシンポジウムがあるのでと頼まれると嫌と言えないご性格ですか。
三木:ついつい誘われると、はいはいなんて言っちゃうんです。
中村:というのは七不思議といえば七不思議なんですが、たとえば土居たか子さんと仲がよろしかったり、市川ふさえさんとかいろんなネットワークがあって、実は三木元首相も自民党の中でなくても他の政党でも十分にやって行かれる方で、そしてそういう議論の時にいや僕が自民党でこういう事をいう人間だからこそ価値があるんだよと奥様におっしゃったそうですね。人と人とのネットワークという結び付きをすごく大切にしてらっしゃるから、超党派でこれからは戦争の問題にしろ、子育ての問題にしろ、医療や福祉の問題にしろ、幅広いネットワークをお持ちなので私も勉強させていただきたいなと思います。
三木:まぁ〜とにかく、三木という男は”カチカチ”の自民党員ではございませんでしたからね。よくあの中に一緒に入れてもらえたなぁ〜と思うぐらい勝手なことをやってましたが、勝手ができないのなら最初から入ってないと思います。やりたい事ができるなら一緒にやりましょうと言うことだったんです。
中村:先程のストレプトマイシンではありませんが今、医療に対して情報が開示されていない。医学の用語と言うのは専門用語ですから難解な用語が多いし、限られた時間でコミュニケーションしなくてはいけないという条件のもとでなにも体の具合が良くて病院に行く人はいませんから精神的にも非常に弱っている方が短い時間で専門用語を一方的に精神的な動揺はあると思うんです。そういった方々をそのまま医療情報の弱者にしてはならない、ということでいろいろな方と力を合わせながら少しでも支援活動ができないかという事でたとえば癌の患者さんのためにセカンドオピニオンやらせて頂いたり講演会を通じて皆さんに医療情報あるいは医療環境について皆さんと同じ目線でお話をする啓蒙活動を推進したりとかささやかですが本を書かせて頂いたりしてきましたが、もしよろしければこれからも是非、今までのご体験とかご教示頂ければ私は望外の喜びなんですが。
三木:私は何もできませんが、父が肺臓がんで亡くなりました。それから数十年後に娘婿がやはり肺臓がんで亡くなりました。その間に医者は何を勉強してくれたんだろうかと思いました。肉親を亡くしてみて医学と言うのはよっぽど心を込めて勉強しないと追い付いて行かない病気の方が先に先にと行ってしまうという感じがしますね。自分の息子のようにずっと一緒に暮した婿と父が同じ病気で同じように苦しんで同じ56才で亡くなったという事しかも婿の場合は戦後ですからなんとかならなったのかなと思う。未亡人になってしまった娘の顔を見ると何か手立てがあるべきだったなと。
平尾:昭和40年から50年にかけてそれまでは脳卒中でした死因の第一位が癌になってから久しいわけですが、今やっと癌対策基本法なんて時代遅れですよね、本当は昭和50年にそれを作ってどんどん患者さんのため国民のための法ができていなければいけなかったんではないでしょうか。もちろん当時も皆さん一生懸命やっていたんでしょうが今、やっと癌対策基本法なんですね。国をあげてやろうという事になって、法律ができると大学もみんなそれに従おうとするんです。だから、政治の力というのは本当に大きいなと私は思いました。それまでは大学の偉い教授さんも自分の範疇のことだけをやっているわけですが法律ができると予算が付きます。そうするとみんなそっちをやろうとなるんですね。政治の力を感じますので政治家になる人には本気で考えて貰わないといけないなと思います。
そういう事で言うと三木武夫元総理という人はその時代にあって本気で考えていた方のお一人で何か迎合して終わりという方でないのが良く解ります。また奥様もそういう方だという感じがいたします。
中村:頼まれたからと言って19万円で家を買ってしまわれてお子様の保養に活用されただけではなくてその家を三木元首相があー、あれ売ったからとご夫婦のエピソードを初めてお聞きして、なんと人間的なと感じました。
三木元首相という方は私の知る限りには高校時代にバザーで売った代金がおかしいと、なんと教員がちょろまかしたんですね。本人がストライキをやってやめろと言ったりそのぐらい清廉潔白なしかもリーダーシップがある。それが政界にカミカゼの立候補ということで徳島ですごく人気を博されていた。しかしながらその方に迎合し三歩下がって師の影ふまずで後ろから黙って付いてきたのではない。自らをパートナーとして不祥附随ではなく対等でお互いがお互い敬意持って接してらっしゃった、認めあってたというのが私にしてみれば家内が今居りません独り者でくやしいんですが理想的なご夫婦だったのかなという感じがいたします。すごくあったかいお話でした。
三木:まあ三木は割に私がつべこべ言うことも、マトモには聞いてないように思うんですがふんふんと言って心に納めておいてくれたんだろうと思うんですね。そうすりゃいいなその事はしっかりやろうなんて事は言わないんですよ。ただ、ふんふんと言うだけです。
対談を終えて 中村直行 平尾良雄
三木睦子さん90歳。政治家の妻として、総理大臣夫人して、昭和の激動の時代を「あるがままに」駆け抜けた賢人。取材を通して、人々に愛された人間味あふれるその人柄が手にふれるように感じることができた大変に素晴らしい時間でした。
夫を支えながらも自らをパートナーとして対等で、互いに認めあっているご夫婦像が容易に想像された。信念をもった「あるがままに生きる人」こんな生き方ができるならば、順境、逆境におかれても人生は楽しい。三木睦子さんのメッセージは強烈である。「自分達が自分の子どもを戦争にやるということに対する拒否感を、もっと大きな声で言わないと 」。三木さんのこの言葉が、強く私の心にのこった。
最後に、今回の取材をお引受頂きました、三木睦子さん、並びに三木格氏に感謝申し上げます。そして関係者の皆様に感謝申し上げます。
学者として、医師そして、一人でも多くの人達のお役に立ちたいという願う我々の信念を更に強くしました。
--- 編集後記 ---
右肩上がりの経済成長は過去となり、社会構造が変わりつつなる中で、長寿社会を迎えようとしています。国の財政も逼迫している社会、我々市民はどのような将来像を描けるのでしょうか。
市民一人ひとりが、利害を超えて国のあるべき姿について政治に参加する時代が来たのでしょう。その大切さを少しでも発信できればとの思いから、三木睦子さんを取材させて頂きました。
近年、国の政策に対する国民の関心はかつてない高まりを見せているように思います。国の世論調査によれば、医療・福祉・介護といった事柄は、国民が最も関心を持っている政策領域となっています。
その医療・福祉分野で、国民の不安と不満が蔓延している。このような時期だからこそ、高い目線から、国のあるべき姿について社会へ発信していかなければならないと、ささやかな活動を続けています。
統医研 編集部